2020年10月29日木曜日

20.10.23-24 島根

 今回は初の島根へ。

運良く寝台列車の予約が取れたので、夢の寝台特急で自転車旅です。

真夜中1時発の寝台特急サンライズ出雲に乗る為、仕事終わりに輪行で浜松駅へ。

23時30分ごろに着いたので駅で90分待ち・・・。

ただ気温が暖かかったので外でも待てました。


いよいよ列車が到着。ドア近くのスペースに自転車を置いて、個室へ。

今回は最も安く、狭い個室、B寝台のソロを予約。

入り口では立てますが、ベッドは座らないと入れません。

ちゃんと寝間着、掛け布団、スリッパが準備されています。


朝起きてからは列車を探索。各車両雰囲気は同じく狭い通路が続いています。

こちらの車両は共同デッキと自販機、シャワールームがあります。

寝台特急で約9時間。10時ごろに出雲市駅に到着。

天気は怪しそうですが雨は降ってなさそう。

1日目はレンタカーで少し離れた石見銀山へ。

石見銀山世界遺産センターから自転車で銀山を巡ります。

石見銀山は1526年に博多の豪商 神屋寿禎により発見され1923年の休山まで使用されました。

伝統的な灰吹法で精練しており近代技術が導入され始めた19世紀後半には銀鉱石枯渇で鉱山活動が停止したため、伝統的技術の銀生産の跡が残されています。


・龍源寺間歩

江戸時代から閉山される昭和18年まで稼働していた銀山有数の大坑道。

全長600mに及びます。

岩石の隙間を掘り進んだひおい坑や垂直に掘られた竪坑が見られます。


・佐毘売山神社

鉱山の守り神を祀る神社。


・高橋家

代官所と鉱山経営者である銀山師との取次をする山組頭の居宅。


・福神間歩

山師個人が経営していた坑道。銀山のある仙ノ山に対し逆方向に坑口があるのが特徴。


・新切間歩

代官所直営の御直山の間歩。銀山で最も大森地区に近く、標高も低い坑道。


・清水製錬所跡

明治19年(1886)から本格的に銀山の再開発が進み、明治27年(1894)に近代的な製錬所として巨額を投じて建設されました。当時は製錬所上段部へトロッコで選鉱した鉱石が運び込まれていた様です。

しかし、鉱石の品質が良くなく、製錬能力も不十分で、1年半で操業停止となりました。


・大森銀山伝統的建造物群保存地区



 ・大森代官所

銀山と幕府領(幕府財政を支える重要な地)を支配する代官の陣屋。

 

・熊谷家住宅

十七世紀に銀山の経営に携わり、その後、掛屋、郷宿、代官所の御用達を務めた、熊谷家の住宅。

町並みの中でも最も規模が大きく、質の高い民家建築。

勘定場や深い地下蔵があり、酒造もしていたようです。


 ・裁判所

 

 ・旧河島家住宅

銀山附地役人の川島氏の邸宅。

 

・五百羅漢

銀山で亡くなった人々を供養する為に地元の人々と大森代官所の役人、代官など多くの人々の寄進により25年もかけて明和三年(1766)に完成。

五百羅漢とは、お釈迦様に従っていた五百人の弟子で仏教上は仏と人間の間の存在とされています。

ここの羅漢像は温泉津町の石工坪内平七とその子と一門の人々が20年かけて彫刻したもので様々な姿勢・表情をしています。


 ・羅漢寺(銭洗い弁天)

お金を洗うと財運が高まるそうです。


近くの温泉津温泉にも寄りました。

ここは銀の積み出していた港町。当時の面影を残す建物が残り、銀山と共に世界遺産に登録されました。世界遺産に登録された初の温泉地です。

時間が怪しいので、レンタカーでそのまま出雲大社へ。


出雲大社


大しめ縄、圧巻です。


国宝の御本殿。ウサギもうらやましそうです。


だいこく様と白うさぎ
因幡の白うさぎです。
境内には他にもウサギがたくさん。
ご縁横丁をぶらり。
お福焼が売り切れていたので、お福アイスを頂きました。


夜はホテル近くの蕎麦屋で出雲そばを頂きました。

3重の器にそばが入っており、上から順番に薬味とつゆをかけながら食べます。

珍しい食べ方にも満足です。


今回は石見銀山唯一のお菓子屋のお菓子と出雲大社ご縁横丁のお土産を購入しました。


2日目はサイクリングでホテルから松江に行き、空港へ。

まずは荷物を預けに出雲縁結び空港へ。

道を戻る最中は強い向かい風。ここまで軽快に走れていたのは追い風の影響か・・・。

帰りが思いやられます・・・。

途中、宍道湖周りに玉造温泉を眺めながら、松江へ。



・松江城

堀尾吉晴が慶長16年(1611)に城下町と共に築城。

現存12天守の内、平面規模2番目、高さで3番目の規模を誇ります。

特に通し柱を各階に相互かつ均一に配した互入式通し柱の工法・構造が評価され平成27年7月に国宝に指定されました。

通し柱(階段脇)


天守内の308本中103本が包板と呼ばれる技法が使われています。
柱の周囲を板で囲み、鉄輪で締め付けています。
粗悪材や割れ隠しとしてだけでなく、補強効果も期待されています。
通し柱にもこの技法が使用された柱がありますが、包板は各階で施工されています。

天守閣より

・興雲閣

明治36年(1903)に松江市工芸品陳列所として建てた建物です。当初は明治天皇の山陰巡幸の際の行在所として計画されましたが、戦争でなくなり、明治40年に皇太子(後の大正天皇)の山陰道行啓の際に迎賓館として使用されました。

明治42年に旧松江藩主家の松平直亮氏によって興雲閣と命名され、扁額の題字も揮毫されました。

建物は木造2階建て洋風の外観に入母屋造桟瓦葺の純和風で、明治期の擬洋風建築の特徴を表しています。


・武家屋敷

内堀と平行する塩見縄手の城下町にある武家屋敷。

塩見縄手の由来になった塩見小兵衛が住んだ屋敷。

500~1000石程度の敷地に主屋、長屋門、塀からなる屋敷です。


・小泉八雲旧居、小泉八雲記念館

怪談作品で有名な小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の旧居と生涯の資料を展示した記念館


小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)

1850年6月27日にギリシャ西部のレフカダ島で誕生。

2歳でアイルランドに移り、16歳で遊戯中に左目を失明

19歳で単身アメリカに移民し、その後ジャーナリストとして分筆を認められる。

その後、ニューオリンズで取材・執筆活動し、万博で出会った日本文化に興味を持ち、1890年4月に来日。

1890年8月に松江市の尋常中学校に赴任し英語教師に

1896年に松江の士族の娘小泉セツと結婚し帰化。帝国大学文科大学講師として英文学を講じ、1906年に後任を夏目漱石に譲り、早稲田大学でも教鞭をとりました。

1904年に54歳の生涯を閉じました。


旧居では松江での1年3ヶ月の内、5ヶ月間を過ごしました。

この家は旧松江藩士の武家屋敷で家主の根岸干夫が庭のある侍の屋敷に住みたいという八雲に貸すことになったそうです。

八雲は庭を大変気に入っており、この庭は小さいながら枯山水の観賞式庭園として高い評価を受けています。



昼は近くの蕎麦屋でまた出雲そば。

今回は釜揚げそばを頂きました。

ゆでたそばをそのまま蕎麦湯と食べるスタイルです。

味はそばつゆで好みの濃さにします。

蕎麦湯を無駄にしない発想。勉強になります!


後は空港目指して走るだけ、やはり向かい風がキツイ・・・。

こいでもこいでも前に進まない感じに、未知の地で時間に追われ、心が折れそうになりながら走りました。

思ったより近かった・・・。帰りを40kmくらいと予想していましたが、実際は30km程度。

松江市街から見えた対岸は遠く思っていましたが、目で見える範囲ということは近いのですね・・・。

予定より2時間近く前に空港に到着。

時間的はもう少し走っても大丈夫そうですが、行く場所もなくそのまま空港で出発まで3時間待つことに。

飛行機は初めてFDAを使用。カラフルな飛行機で有名ですが、今回はワインレッド。

近すぎるのか離陸して安定飛行になったと思ったらもう着陸態勢に、

お茶とチョコレートが出ましたが、ゆっくり食べる時間もありません・・・。

身近でしたが初利用の小牧空港に着陸。

その後はまた自転車を組んで中央線の勝川駅へ。金山で東海道線に乗り換え、蒲郡へ。

東海道線では自転車を置くスペースを譲ってくれた方がいて、とても助かりました。

列車輪行はいつも置くスペースを譲ってもらえず、邪魔を感じ肩身の狭い思いをしていただけに理解を示してくれる方はうれしいものです。もちろん邪魔にならないように周囲を気遣うことは輪行の最低限のマナーですが。

蒲郡駅からまた自転車を組んでひとっ走りで無事帰宅。


走行距離:94.54km

巡航速度:19.9km/h


2日間で90km程度でしたが、何かすごく疲れた・・・。

初めての寝台列車と島根旅、満喫できました!