2018年6月9日土曜日

18.06.02 掛川城

今回は掛川城へ。

掛川城
掛川城
戦国時代の武将今川氏の勢力拡大で
永正9年から10年(1512~1513)頃に築かれました。
永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれ、
子の氏真は甲斐の武田氏に追われ、永禄11年(1668)掛川城に立て籠もりました。
翌年、徳川家康が掛川城を攻め、開城させてからは、
家康領となり、重臣の石川家成が入城
霧噴き井戸
徳川家康が掛川城に立て籠もる氏真を攻めた時に
霧を噴いて家康軍の攻撃から城を守ったそうです。
天正18年(1590)全国平定を達成した豊臣秀吉により
関東に徳川家康が追いやられ、秀吉配下の大名山内一豊が入城。
この時に城の拡張と整備がされ、天守閣がつくられました。
江戸時代になると再び徳川領になりましたが、
嘉永7年(1854)安政の東海大地震で天守閣などの大半が損壊
御殿などの一部を除き再建されることなく明治2(1869)年に廃城となりました。
その後、平成6年に140年ぶりに天守閣が木造で再建され、
日本初の木造復元天守となりました。

掛川城天守閣
掛川城天守閣
瓦葺、外層3階、内部4階
外部は白漆喰塗籠、廻縁・高欄は黒塗
①1階 展示室 ②2階 ③2階 狭間 ④武者隠し ⑤展望
1階は展示室になっています。石落としの様な攻撃施設も設置されています。
2階には鉄砲や弓矢で攻撃できる狭間が設置されています。
3階は武者隠し
4階は望楼となっており、東側からは天気が良ければ富士山も見えるそう。
今回は靄が掛って見えませんでした・・・。

掛川城御殿

掛川城御殿(天守より)
儀式、藩主の公邸、藩内の役所としての機能を併せ持った施設。
江戸時代後期から現存するのは京都二条城など
全国でも4か所しかない貴重な建築です。
御広間
徳川家康公所用 黒頭巾形兜伊予札黒糸威胴丸具足写

①三の間 ②御書院 ③小書院 ④大目付 
⑤御談の間(談合、会議などを行う場所)
最も重要な対面儀式が行われる書院棟は
御書院の間と謁見者の控室(次の間、三の間)からなります。
藩主の公邸となる書院棟には小書院の間と居間、
役所の建物には目付などの役人の部屋や文庫などがあります。
長囲炉裏の間(展示)
松平忠喬公甲冑 太田資俊甲冑

竹の丸

掛川城の郭に位置し、家老や重臣の屋敷が割り当てられていた場所に
明治36年に城下町の喝布問屋の松本家が本宅を建築
豪商の屋敷の様相を伝えるものです。

大日本報徳社
大日本報徳社 大講堂
明治維新前後に困窮する農民の救済を目指し、
農民生活の安定化に貢献する実学的手法として、
二宮尊徳がまとめた「報徳思想」が全国に広がりました。
特に掛川ではその活動が盛んで、その時に設立されたのが
「大日本報徳社」です。
大広間


冀北学舎
冀北学舎
明治10年(1877)から17年にかけて、岡田良一郎が開いた私塾

仰徳記念館
仰徳記念館
明治17年(1884)東京霞ヶ関に倒幕軍の総大将栖川宮熾仁親王邸
昭和13年にこの場所へ移築。
工部省設計の宮廷建築
①廊下 ②部屋 ③広間

仰徳学寮
仰徳学寮
栖川宮熾仁親王邸の木造総2階建て寄棟造の建物
現在は事務所や資料保管室として使用

湛山翁記念報徳図書館
湛山翁記念報徳図書館
岡田良一郎の遺徳を記念し昭和2年に建てられた図書館

走行距離:185.25km
巡航速度:23.1km/h

今の時期は暑すぎず、いい自転車日和です!

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