今回は愛媛へ。
もともと29日はサイクリング、30日はサイクリングと観光のつもりでしたが29日が雨だったので予定を変更して29日は移動日に。
夕方に松山市内に到着したので、名物の鍋焼きうどんと温泉に入りに道後温泉へ。
鍋焼きうどんは出汁が効いた汁でおいしかったです。
めんはもう少しコシが欲しかったですが・・・。
温泉は90分待ち。松山駅に戻れなくなりそうだったので、入るのはあきらめて朝出直すことに。
ホテルに戻って1日目終了です。
2日目
朝から市電で道後温泉へ。
道後温泉本館は既に11時以降しか入れないみたい・・・。
さらに外観も工事中・・・。
道後温泉本館 |
諦めて別館の飛鳥乃湯へ。
特に待つことなく入れました。
温泉に入ったあとは道後温泉の周りをぶらっと。
湯神社 |
伊佐爾波神社 |
宝厳寺 |
道後温泉駅 坊ちゃん列車 日本初の軽便鉄道として開業した伊予鉄道一号機関車 |
市電 |
道後温泉を堪能した後は、松山城へ。
近くの愛媛県庁。
かっこいい建物です!
松山城
現存12天守の一つです。
標高132mの勝山山頂に本丸、西山麓に二ノ丸、三ノ丸を置く連郭式平山城。
天守は天守と小天守、櫓で構成された連立式天守。
南隅櫓 北隅櫓 |
紫竹門 多門櫓 小天守 |
戸無門 筒井門、隠れ門 太鼓門 井戸 |
野原櫓 乾櫓 |
二之丸
松山市から車で今治駅へ。
今治駅から電車で輪行で新居浜駅へ。
新居浜からサイクリングスタートです。
まずは別子銅山マイントピア別子へ。
マイントピア別子から東平エリアまでヒルクライム。
別子銅山
元禄4年(1691)に田向重右衛門一行により見つけた鉱床(歓喜抗)から開坑
昭和48年(1973)閉山までの283年採鉱が行われた銅山。
特にその間、住友一社による採鉱が続けられたことは世界的にも珍しいそうです。
明治15年に第一通洞、明治19年には山根湿式精錬所が操業開始します。
明治26年には専用鉄道が開通しました。
明治28年には煙害問題により山根精錬所を廃止。
明治38年には海上の四阪島で四阪島精錬所が操業開始。
大正14年からは機械選鉱場が建設されました。
当時銅山で採鉱された銅鉱石は鉱山鉄道で銅山の麓(堀越地区)に運ばれ選鉱が行われ、選鉱された銅鉱石は港から四阪島の精錬所に運ばれ精錬が行われていました。
四阪島の精錬所は現在も酸化亜鉛の製造工場として稼働しています。
東平エリア
標高750mの山中にあり、明治35年(1902)の第三通洞の貫通により
大正5年(1916)から昭和5年(1930)まで採鉱本部が置かれていたエリア。
選鉱場/貯鉱庫、索道停車場、インクラインなどの跡が別子銅山の代表的な遺跡となっています。
東平隧道 2t蓄電車(鉱車のほかかご車もけん引) 600Bローダー |
昭和5年(1930)から昭和48年(1973)の閉山まで採鉱本部が置かれていたエリア。
旧泉寿亭特別室(移築)
昭和12年に別子銅山開坑250周年を記念し建設された純和風の接待館第四通抗
旧端出場水力発電所
明治45年(1912)増大する電力需要に対応するため設置された水力発電所
第二水車発電機(ドイツ シーメンス・シュッケルト社製) 特別高圧室 ベルトン水車 回転交流機(住友重機械製) 制御盤 |
どこの鉱山も同じですが、衰退した歴史を見ると産業が生活を豊かにしていることを実感させられます。モノづくりは資源があって成り立つ産業でいつかは資源が底を尽きるので、数千年後、数万年後には産業が衰退して原始人のような生活に戻っているのかもしれないですね。例えば石油はあと50年分程度しか残っていないといわれているので、産業の衰退は数年後なのかも・・・。資源は大切に使わないとダメですね。
別子銅山から今治駅までサイクリング。
今治湯ノ浦温泉道の駅でスタンプを押して、今治駅にゴール。
比較的平坦なコースだったので、いいペースで走れました。
夕食は近くの中華料理屋で地元グルメ 焼豚卵飯を頂きました。
セットで唐揚げを付けましたが結構なボリューム。満足できました。
サイクリングで汗をかいたので近くの温泉へ。
サイクリスト優遇の温泉らしいです。
サウナやジャグジーなど楽しみながらゆっくり休みました。
温泉に入ってリフレッシュしたので、車で帰宅の途へ。
途中、岡山で車中泊。寒かった・・・。
自転車が邪魔でかえって疲れました。朝、体中が痛い・・・。
休憩を取りながら昼頃に帰宅しました。
走行距離:83.06km
巡航速度:20.7km/h
今回のサイクリングで四国1周チャレンジのクリア条件を満たせました。
一周はしてないけど・・・。
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